1977年に米西海岸で開かれた第1回「ウエストコースト・コンピュータ・フェア(WCCF)」に出展されていた展示物の中で、若者を中心としたベンチャーがマイコンを使って作った――いまで言うパソコンが多数あった。「マイコン」とは「Micro Computer」を日本風に短く言ったもの。
マイコンが開発されたのは1971年。米インテルが世界で初めてワンチップでプログラム動作する4ビットマイコン――正確にはマイクロプロセッサ(MPU)を開発した。当初の目的は高機能電卓用でコンピュータとはかけ離れたものであった。しかし、その翌年にはすぐに8ビット化し、さらに74年には改良された8ビットマイコンが出た。それを利用してプログラムが動作するボードコンピュータを作るのが若者たちの間で流行り、米国内ですごいスピードで発展していた――その結果が一堂に会したのがWCCF。すごい熱気であった。「これからはマイコンの時代だ」と確信するのに時間はかからなかった。
そのころ、私がアメリカで注目したものが3つあった。1つ目はマイコン。2つ目は初期のUNIX。学会での発表が縁で招かれたベル研究所では、UNIXをミニコンなどに載せて使っていた。現在のLinuxやAndroidなどは、このUNIXから派生したOSだ。
そして3つ目が、ゼロックスのパロアルト研究所を訪問した際に見た、現在のパソコンの原型ともいえる「Alto(アルト)」だ。Altoは子供でも使えるコンピュータをコンセプトにしており、画面上のアイコンをマウスで操作する仕組み。アップルの創業者、故スティーブ・ジョブズがAltoに衝撃を受けたのは有名な話だ。コンピュータを誰でもが1人1台持つ時代を想定して創られた動くコンセプトモデルがAltoであった。
ところが、日本に戻るとちょっと違う。日本のメーカは大型コンピュータの互換機で追いつき追い越せをやっていた時代。その揚げ句、82年におとり捜査に引っかかって「産業スパイ事件」を起こしてしまう。米国が日本のことを脅威?に思い始めたのがこのころである。知的所有権やソフトウェアの価値がクローズアップされていく。
そこで日本も互換機とは別の方向に行かなければならないとなる。政府主導で取り組んだのが「第五世代コンピュータ」――いわゆる人工知能コンピュータだ。その初期計画に私も少し関与していたが、理想は理想として当時のマシンでは計算パワーも記憶容量も足りず、実現はもっと先だと私は判断した。そこで「いまの日本の産業にとって重要なのはマイコンの方だ」と意見具申を行ったが受けいれられなかった。
大型コンピュータの延長線で考えられそうな、パワー指向の開発である第五世代コンピュータに対し、小型・低価格を指向するマイコンへの転換は、ビジネスモデルも技術もまったく方向が違うということで、当時の日本のコンピュータメーカの主流には受けいれ難かったのだろう。
そこで、直接のビジネスを要求されない「研究者」という立場から、日本がマイコンという波に乗り、それを産業に活かしていくのを助けるにはどうすれば良いかを考え、マイコンを使ったオープンな組込みシステムと開発環境の標準化プロジェクトを産学協同で始めた――それがTRONプロジェクトである。