同じころ、日立から次世代マイコン開発の共同研究の話が来た。当時、日本の半導体メーカはインテルやモトローラのマイコンビジネスの立ち上がりを見ながら、なんとか日本でも、と考え始めていた。しかし情報処理の分野だけでなく、力をつけはじめた日本のメーカに対して米国は警戒モードに入っており、知的所有権が大きく意識され始めたころでもあった。
80年代も中頃になってくるとマイコンは徐々にコンピュータの次世代中核技術と意識され始め、産業スパイ事件の反省もあり、独自アーキテクチャのTRON仕様のチップ開発に日本の業界が動き始めたのだ。
日立の金原取締役がオープンな仲間作りの重要性を強調され、富士通、三菱、東芝、沖、松下と続々とTRONチップの開発企業が増えていった。チップの基本設計は私がやったが命令セットといわれる基本アーキテクチャだけに押さえ、実現のための回路設計では各社が工夫する――差を出せるようにするというのが基本方針で、これが良かった。
応用側としてはメーカを問わず開発が進められる。最後に量産する時にどのメーカのチップにするかは必要性能に応じて決めれば良い。価格と性能で選べば良いのでユーザからみれば悪いことはない。実はこのモデルはいま英国のARM社のビジネスモデルとなっている。当然チップ開発者から見れば、つまりは開発競争になるが、当時の日本の半導体会社は上り坂で逆に各社もはりきり、若い開発者も良くがんばっていたので、後ろ向きに囲い込もうというような話は出なかった。次世代標準マイコンの誕生である。
しかしそのマイコンを何に使うかの応用イメージについては日立、富士通グループと、私の考えていることには少しずれがあった。私はもとより組込み用途が重要。さらには、未来にはあらゆるモノがマイコン内蔵になる。いまで言うIoT (Internet of Things)とかM2M (Machine to Machine)―いわゆるユビキタス・コンピューティングが応用として、すでに頭にあった。また、その時点としては最も重要なマイコンの応用はパソコンにあると思っていた。だから当時何度も「チップの中身はまったく違ってもピン配置はインテル互換にしたほうがいい」とか、「エンディアン(多バイトデータのメモリ配置の方式)もリトルに」とか主張した。しかし、メーカの方々は当時成功をおさめているIBM互換機の下機種をTRONチップで作ることを想定していたので、大規模・高性能の方に走った。エンディアンもIBMと同じビッグ。もちろんピンはまったくインテルと違うもの。これは大きな差異だ。
当時の日本の半導体開発力はすばらしく、インテルの最新チップと比べても技術的には勝てるようなものができていく。例えば富士通のGMICRO300などは当時のインテルチップより集積度や性能も良かった。しかしパソコンを作る事業部は大型機の事業部と別。パソコン分野では当時NEC PC-9800シリーズが成功を収めていたので、各社はそれを追いかけるためインテルのx86アーキテクチャを採用したパソコンを作り始めていて、大型機のチームとは連携していなかった。いくら性能は良くても、インテルに合わせて出ているパソコン用の周辺回路と合わないGMICROチップでは使えないと言われた。
TRONチップで組込みを狙ってくれたのは三菱。このとき開発されたチップがベースとなって、その後三菱の組込みマイコンは商業的にも成功する。
大規模・高性能チップ指向が残念だったのは、そのために、大型機の衰退と共に結局は使われない原因となってしまったことだ。NTTの電子交換機とか宇宙機とか、重要ではあるが数が出ないようなものに利用は限られた。しかし32ビットマイコンという世界最先端のマイコンを自力で開発できたという自信を多くの日本の開発者に与え、人を育てたことでは大きな貢献ができたと思っている。